故郷の廃家
甘口、辛口の雑記ブログ。 少女時代の思い出と、現代の風潮への怒りとの、2つの ベクトル上で行き暮れる。 団塊嫌いの団塊による、すべての世代の人へのメッセージ。


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2009.06.05  「寝ている間に考えた」  私のマニフェスト⑥ <<01:35


さて、元気になったので、「私のマニフェスト」の続きです。
このテーマになると、普段は饒舌な私の筆がぴたりと止まってしまいます(笑)。
なぜ、止まってしまうか、というと、
こんなこと書いても無駄なのかなあ、という気持ちがどこかに常にあるからです。
前にも書きましたが、もう私の時代は終わってしまっています。
人々が「政治的」であった時代はもう終わってしまったのです。
(今思えば、あれが本当に政治的な時代だったのか、という疑問も残りますが、
とにかく、若者が、そして知識人が、熱く政治を語った時代がかつてあった)

時代は常に忙しく先に進んでいて、その流れに棹さそうとする者は、
人々の行き来の邪魔になり、うるさがられてしまいます。
もう、私の声は届きません。
これからのことは若い人々に任せておいて、
もう黙って、ただの気の良いおばあさんでいる方が、
私も楽だし、周囲もその方がいいと思うんじゃないのかな。

そんなことを考え始めると、ブログでもそういった政治的な発言を
することをためらうようになってしまい、記事が書けなくなってしまうのです。

全ての人がそうでしょうが、私の中にも色々な側面があります。
ブログ説明にもある通り、「懐かしい過去の思い出に浸る、穏やかな初老の女性」
という側面と、若い頃の闘争心がまだ抜けず、世の中のあれこれに物申したい
「精神の未だ老いきれない私」と、大きく言えば、その両面が沈丁花という存在の中に
あるのです。

いま、世の中には、すぐにでも解決しなければならない問題がたくさんあります。
黙って何もせずにいていいのだろうか。
でも、旧来の、ただアジテーションをするだけの方法では、今の人は関心示してくれないよなあ。
どうすればいい解決法が見つかるのだろう。

そんなことを考えているうちに、扁桃腺炎にかかってしまい、何日も寝ていました。
私にとっては、いいさぼりの理由が出来たようなものです(笑)。
で、何冊か、それまでに買っておいて読めずにいた本を次々と読んでいました。
私の疑問に答えてくれそうかな、というタイトルを掲げるような本でした。

読み終わって、この不況の、生きにくい世をどうすればいい?という私の疑問に
それらの本が答えてくれたか、というと、否、でした。

どうやら、立ち止まって考えこんでいるのは、知恵の回らぬこの私だけではなく、
本を書くような偉い人も、やはり、今の世界は捉えきれずに、頭を抱えているのだな、
ということがわかっただけでした。

例えば、三田誠広「マルクスの逆襲」(集英社新書)
タイトルが過激なので、「おおっ!、この閉塞した世界状況を打開するため 
には、もう一度マルクス主義的考えを導入せよ!という論点なのかな?」
と、意外に思って買ったのでしたが、結論は違いました。

「ともに力を合わせて生産に取り組む仲間たちとのコミュニティーの中にいることが
生きることの充実感をもたらすような社会。」
「経営者から労働者まで、すべての国民が良識をもち、共通の理念をもつということは
不可能ではない。もしそれが実現できれば、今のままの民主主義のシステムで、
国家のあり方を修正することも可能だ。」・・・こういった論点で書かれています。

「すべての国民が良識を持つこと」・・・
はああ、結論は、精神論ですかあ。

宮台真司「日本の難点」(幻冬舎新書)
日本そして世界が抱える様々な問題をわかりやすく解説してくれ、
またその解決法もある程度示唆はしてくれますが、この本でも、
最終的な結論は、「ミメーシス、すなわち感染的模倣」。
宮台氏はチェ・ゲバラの例をあげてこれを説明していますが、
「感染的模倣」とは、チェ・ゲバラのように、利己心を全く捨てた「スゴイ人」がいると、
「このスゴイ人についていきたい」
「自分もこんな風にスゴイ人になりたい」
と思う人が多く出てくる。
というように、周りの者が、合理性とは別の何か、
つまり、優れたもの、立派なものを模倣をすることが感染していく、というような、
理屈を超えたものによっていつか包摂されていき、
結果的に社会の「世直し」がされていく、ということのようです。

あれぇ、これも、精神論です。

精神論でこの困難な状況が解決できるのなら、こんな楽なことはないのですが。
結局、みんなわからなくて行き暮れているんだなあ。そう思わされました。

世界がこうあってほしい、と思うそのイメージは、誰の心にもあるのです。
しかそこへどうやって至ればいいかがわからない。

あまりにも、現実のシステムというものが、がっちり出来上がり過ぎているからです。
また、人間の利己心というものが、徹底的な改革を拒むからです。
それが何より大きいのかもしれません。

職を失くして、今路頭に迷っている人がいる。
彼らに職を与えよ。
ワークシェアリングなんかいいじゃないか。
日本人はこれまで働き過ぎだ、と海外の人からもよく言われてきた。
みんなで、職を分け合って働きすぎの人の分を、仕事のない人に回せばいい。
でも、具体的にどうやって仕事を再配分するの?
ええっ!俺の残業、無くなるの!
ちょっとちょっと、それは困るよ!うちは育ち盛りの子が二人、私学に通ってて
しかも住宅ローン組んだばかりなんだからさあ。
ワークシェアリングはいいことだと思うけど、僕の分はちょっと勘弁して。

国内だけでなく、世界的規模でも仕事や富の再配分が必要、ということは
なんとなくみんな感じてはいても、その具体的な方法を考えると、
気が遠くなりそうに前途遼遠だし、また、それが自分の懐を痛めたり、
快適な生活を放棄または縮小しなければならないとなると、
誰も、もう、動こうとはしなくなるし、そんなことは見なかった、聞かなかった、
と、口をつぐんで黙りこんでしまいます。

ところがそこへ、勇気を出して、具体的に活動し始めた人が現われたとします。
口であれこれ綺麗ごとを言うだけでなく、実際に、小さなことから活動を始める人が。

そういった状況の時、一般的に人はどういう反応を示すでしょうか。

勿論、ああ、突破口を開いてくれた人が出てきた!
私も活動に加わろう!
今現実に困っている人のためなら、自分も多少の辛抱はしよう。
そう思う人もいるでしょう。

ところが、おそらく多くの人の反応は、「何か困ったな。」
というものじゃないでしょうか。
「なんか小うるさいな。うざったいな。」
「俺のことは放っといてくれないかな。活動してもいいからあっちでやってくれ。」
というような感覚。

なかなか人間というものは他人の痛みを自分の身に引き付けて考えることはできません。
地球が汚染されていって危ない、と言ったって、自分の生活と結びつけて考えるのは難しい。

さてそういった、「困ったな。あっちでやってくれないかな。」という感情は
どこから来るか、というと、それはやはり、自己保身の感情だろうと思うのです。
今の生活を何ものによっても変えてほしくない、という感情。

これは私自身がそうなので、その気持ちはよくわかるのです。

しかしこの、「こまったな。よそでやってくれ。」と思う気持ちが、
「排除」の気分になってしまうのはまずいだろうと思います。

3冊目。雨宮処凛「排除の空気に唾を吐け」(講談社現代新書)
この30代の女性は、うつ病、自殺志願、フリーター、そしてかつては右翼団体に所属、
今は作家、反貧困ネットワーク副代表、・・・という、いわば変わった経歴の持ち主です。
彼女は、あの「派遣村」活動で知られる、湯浅誠氏の
「人は五重に排除を受けて、貧困に陥る」という考えを引用し、
この日本に厳然としてある、貧困に落ちる者への「排除」の空気を批判しています。

「五重の排除」とは、
まず、「教育課程からの排除」
  家庭の貧しさや無理解、またいじめなどによって、学校に行きたくても行けない、
  結果的に良い収入を得る仕事に将来就きにくくなりがちな子供たち。
第二に、「企業福祉からの排除」
  フリーターや派遣など、非正規雇用の働き方にならざるを得ない人々は、
  雇用保険、休業補償などの企業福祉も得られず、常に失業の不安におびえながら働いている。
第三に、「家族福祉からの排除」
  実家の親が健在であればまだいいが、親が死んでいたり、経済力がなかったりしたら、
  家族にいざという時頼ることもできない。
第四に、「公的福祉からの排除」
  最後の頼みの綱と、公的な支援を求めようとしても、
  生活保護も、まだその資格がない、として断られるような状況。
第五に、「自分自身からの排除」
  こうなったのはすべて自分が悪い、もう死ぬしかない・・・
  と、自分を追い詰め、自殺まで考えるようになった状況。

ここに私は、「第六の排除jを付け加えたいと思います。
それは、「世間の眼の非情さ」、という排除です。
派遣村に頼っていくような奴は、生き方も考え方も甘いんだよ、というような言い方。
派遣村に行って、飯と宿を只で与えてもらって、働ける立派な体がありながら、
生活保護を受けようとするような奴に限って、3Kの仕事は自分には向かない、とか言って
断ったりするんだよな、そんな奴、国で保護してやることないんだよ、と言うような言い方です。

確かにこれは一面の真理を突いているかもしれません。
職探しして切羽詰まっているはずの若者が、少しだけ、農家で農作業の大変さを
味わうと、これは自分には向きません、と言ったり、
また、介護の現場を少し経験してみただけで、これは自分にはきつすぎます、と言ったり
するのを、報道などで私も見ています。
そういう意気地のないものも、確かに中にはいるかもしれない。
しかし、その一部を見て、派遣村を訪れ、生活保護を求める者が全て怠けもの、
であるかのようにみなしてしまうのはどうでしょうか。
中にはどうしようもない事情が重なって自殺寸前まで追い詰められていう人もいると思うのです。
勿論、怠け者にただ手は差し伸べるわけにはいかない。しっかりした区別は必要です。
ただ、今現在困窮の中であえいでいる人を、「怠けもの」「自己責任だろ」と言うような
言葉や視線で、排除するのは、とりあえずやめようではありませんか。

また、私がいつも、おかしなことだなと腹が立つのは、
こういう困った人を助けたり、反原発運動などの活動をしたりする人を、
なんとなく色眼鏡で見る空気がこの国にあることです。
なんとなく胡散臭い、変人でも見るようなまなざし。

そういった、一種の色眼鏡と言える、忌避の感情は、一体どこからくるのでしょうか。

人間の中には、「正論」というものをなんとなく忌避する感情がありはしないでしょうか。
職を失い生活に困窮している人々のために、自分を捨てて活動する人は立派だ。
そう、心の中では思いながら、それを見ていると、
なんだか自分も煽りたてられるような気がする。
鋭い正義の剣の切っ先を、突き付けられているような気がする。

すると、人はどうするか。
よくありがちなのは、揶揄することです。
困っている人々のために働いている人を、「好きだねえ。」とか言って軽く揶揄する。
また、特定の政党が宣伝活動に利用しているだけだよ、という言い方もよくされます。
それのどこがいけないのでしょう。
すべての政党が、競って救済活動すればいいじゃありませんか。

考えてもみましょう。
これが「派遣切り」、とかいう問題なら、「自分の会社は万全だし、自分は有能だから、
首を切られることは絶対にない」と自信を持って言える人もいるかもしれない。
あいつらは働けないんじゃない、働かないんだよ。
仕事なんか、選ばなければいくらでもある。選り好みしている横着な連中なんだよ。
あんな連中のために日夜救済活動するなんて無駄!
そう言って笑っていられるかもしれない。

ところがこれが、老人介護などの現場の問題であったらどうでしょう。
あと10年、あと20年?親が二人とも倒れて、自力で生きていけなくなるということは
どこの家庭でも起こりうる問題です。
日本の家庭の経済力は実は底が浅い。
痴呆がひどくなった親を、立派な高額の完全介護の施設に入れることができ、
若い者の生活が介護によって脅かされないですむ経済的余裕のある家庭というのは、
割合から言ってそう多くはないでしょう。
大抵は比較的に安い公的施設の空きが出るまで、子供のうちの誰かが
仕事を犠牲にしてでも親の面倒を見る。
それが5年10年と長く続けば、悲惨です。共倒れになって介護する者も倒れたり、
ひどい場合には親殺し、なんてことも起こりうる。女優の清水由貴子さんのように、
痴呆症の親を残して、自分が死ぬケースさえある。
また、収容された施設がとんでもない非道の待遇を収容者にしているケースも多い。

「病院たらい回し」問題ならどうでしょう。
明日は我が身かもしれません。
現に私は、数年前、主人と都心にあるかかりつけの病院に行く途中、
主人が脳梗塞の発作を起こして、電車の駅で倒れたのです。
救急車に私も乗り込み、ようやくかかりつけの病院にたどりつきました。
ほっとする間もなく、空きベッドがないことを告げられます。
かかりつけとはいっても、診療科が違えば、駆け込みの病人と同じ扱い。
医師達のあからさまな迷惑顔。
主人は青白い顔をして意識もなく、救急患者や医師看護婦でごった返す
救急棟の片隅に放り出されたまま。
いつもの担当の先生も科が違えば、受け入れ出来ないというその科の医師に
及ぼす力はなく、結局主人はそこから救急車でどんなに急いでも30分以上はかかる、
我が家の近くの、その病院の系列病院まで運ばれることになったのです。
幸い、奇跡的に回復して、今は普通に生活できるようになっています。
しかし、電車の中でいきなりふらっと倒れ、途中下車した駅で救急車を待つ心細さ、
そうして、ベッドが満床で、医師の手が足りないから、受け入れられない、
と言われた時の絶望感。二度と味わいたくありません。

慢性的な医師不足、小児科や産婦人科の医師になりたがらないという診療科の偏り。
公立病院など病院経営の不安定化、老人介護の問題、
医療保険制度、・・・・、こういった問題は、放ってておくわけにはいきません。
明日にも我が身を直撃する問題かもしれません。
「自己責任」という非難はここでは成り立ちません。
こういった問題を解決するために活動している人々を、「好きだねえ。」と揶揄できるでしょうか。

要するに、「自分からは遠い世界の問題」、と考えている時に、
人はそれで苦しむ人に無理解となり、そこで問題解決のため働く人を
なんとなくあざ笑ったりするのではないでしょうか。

例を挙げると、およそ社会的活動の中で、一番活動家が理解を得られないのが、
反原発運動ではないでしょうか。
原発事故、というのは、夏場エアコンが使えなくなってもいいのか、
などという、電力会社が言いがちな気楽な問題とは、その重大性が違うのです。
ひとたび、重大な事故に発展してしまったら、日本は壊滅的に汚染されてしまいます。
しかし、人はその事実を、想像さえ、してみたくない。
この、地震の多い国に、稼働中のものが50基もあるというのに。
ところが、反原発運動、と聞いただけで、毛嫌いする人も多い。
なぜなのでしょう。
石油がいずれ無くなるから?電気が使えなくなると不便だから?
原発も石油の代わりはできません。熱エネルギー、発電ということは出来ても、
石油が繊維になり、食品になり、生活用品のほとんどになり、勿論熱源になる、
その代わりを原子力発電がすることはできないのです。
その危険の重大さに比すれば、原発は極めて非効率的な設備です。
現代の私達の生活の快適さのために、数十年後数百年後の人類地球環境に 
禍根を残す?
一度じっくり原発のことを調べて、その実態を知ってみてください。

さて、この「知る」ということ。
これが、現代の諸問題のもつれを解きほぐし、解決策を求めるための出発点だと
私は思っています。
原発の実態を知る。介護の現場の過酷さを知る。農村の疲弊の実態を知る・・・。

それには教育しかありません。
学校教育だけではなく、あらゆる手段でこの国に起きていることの実態を
先入主なしに、大人も子供も知ること。

さて、知ったらどうするか。
解決のために動き出すことです。
ここで、前記2冊の著者の結論を思い出してください。
「なあんだ。精神論で終わっちゃうの?」
私は2冊の本の読後、そういった不満を抱きました。
しかし、よくよく考えてみると、今の日本、そして世界が抱えている問題のすべて、
では勿論ないけれど、その多くが人間の心のありようによって、
良い方向にも変えられる問題だとはにも思いませんか。
教育問題、食の安全と自給率の問題。少子高齢化問題、医療問題・・・。

勿論これらの問題を解決するためには、今のシステムを根本的に見直す必要があります。
でも、みんなで知恵を出し合い、解決方法を導き出すことはできると思うのです。
民主党の鳩山党首が、「友愛」を謳っています。
党首選の時、これを聞いて、私は「けっ!、友愛?そんな抽象的なことが政策の要?」
と、馬鹿にしたい想いを抱きました。

しかし、案外これは、今の日本に一番欠けていることなのかもしれません。
たまたま、いくつか前の私のブログで、娘が、
「これから時代に求められる人は、『いい人』なのかもしれないよ。
声高にプロパガンダを叫ぶ人などではなく、『ただもう、いい人』」
というようなことを言ったと書きました。
偶然なのですが、これは宮台真司さんの言うところの、「感染的模倣」にも、
三田誠広さんの言うところの、「国民の良識」にも、
また鳩山民主党党首の言うところの、「友愛」にも通じるところがあるのではないでしょうか。

「還らぬものを嘆いていても仕方がない」
このことを私は、このブログを通じて若い方から学びました。
真剣に学び真剣にものを考えている若者がたくさんいることを、知りました。
希望は捨ててはいけません。

もう、日本人は疲れている。そこへ檄を飛ばしても仕方ないのです。
ただ、「知る」ことは続けなければならない。
これまで以上に、この国の、この世界の実態を知る必要があります。
そうして、皆で解決策を考え、一歩一歩推し進めていく。
そこで、人間のエゴは、少しづつ抑えていかねばならないでしょう。
また、中には人の善意を悪用して、怠ける連中もいるかもしれない。
しかし、今はまだ、「非難」「悪意」の眼を、人に向けるのはやめましょう。

これらはすべては「教育」していくしかありません。

自分ところの安全性をごまかした商品を、ずるい方法で売るような業者からは
ものは買わない。
少々高くても、安全な野菜を作る農家から買い入れる。
車に頼らず、公共交通機関や自転車を活用する。
人を貶める誹謗中傷などを流すなどということは卑怯なことだという教育を
幼い時から植えつける・・・・・。
労働で汗し、収穫する喜びを知る・・・。

何よりも、大人が、「かくありたい」という未来の理想像を自らしっかり持って、
それに向かって進んでいくことが必要なんじゃないでしょうか。
人をただ責めても何も生み出さない。
なぜそこに至ったか、を徹底的に調べ、原因や実態を知って、
皆の知恵を結集して、解決の方法をひとつづつ見つけていく。

「貧困の連鎖」「悪意や誹謗中傷の連鎖」ではなく、
「まじめに働けば正当に報われ」「善意を人に分かち合う」・・・
そういう、「希望の連鎖」をみんなで生みだしたいものです。








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Re: evgene さんへ


いえいえ、話の熱が引いたなんてとんでもない。まだこれからです(笑)。
何しろ、ハンス・ヨナス、読まなければ話にならないと思って、
今ちょっと漫画話で休んでいるだけですから(笑)。
原発の話にしても、その他のことについて考えていくうえでも、
evgene さんと今話していることって、私にとって、
自分の姿勢というものを考え直すうえで、避けて通れない問題なんですよ。
そもそも、私の方から、evgene さんに質問したんですから、
こうやって真剣に考えてくださって、嬉しいです。

>>私などの世代の者が、当たり前に「価値」だと信じているものは、
>>その後の時代でさまざまに検証され、解釈された結果、
>>その「嘘くささ」がもう見抜かれてしまっている。

> 「嘘くささが見抜かれてしまっている」というのは、ネガティブに評価し過ぎていると思います。
>「数多くある価値観の内のひとつになった」ぐらいが妥当だと思います。

「嘘くささが見抜かれてしまっている」というのは、確かにネガティブにすぎましたか。
自分でも、そこまで強く否定しようとも実は思っていませんので(笑)。

私が一番分からないのはね、「これは絶対だろう」と私などが思うことも、
今はその、「価値観の多様化」、ということで「絶対」とみなされなくなっている、
ということが、どうしても頑固にわからないの。
これは、evgene さんに反論しているのじゃないから誤解しないでね。
教えてもらいたい、と思って、この間から、この話題にこだわっているのです。

シュレーダー=フレチェットやハンス・ヨナスのことをよく知らないままに、
私がお返事書いたりしてたので、話が少し逸れていってしまいましたが、
何を、根本におくか、ということでは、私の基本的スタンスは、
evgene さんのおっしゃる「生きる」「生きたい」「生きろ」と同じだと思います。
これはもう、このブログを始めた時からの私の主要な「テーマ」のようなものです。
ただ私の場合は、それに益々近づいている、ということで、「生」という言葉ではなく、
「死」がキーワードになってますけども(笑)。
『命』という言葉を使っておきましょうか。

色々な事象を考えるとき、わからなくなったら、私は、この「命」という言葉に立ち返るように
しているんです。「生」といってもいいです。「死」といってもいいです。
これが基本だろう、と思う。
ところが、これさえ、今は「絶対」ではないんですかねえ。
数年前、「なぜ人を殺しちゃいけないの?」という子供の質問に大人が答えられない
ということが問題になったことがありました。
一流の(と思われる)作家や評論家が、この問いに対して、明確に答えない。
私は腹を立てながらその討論番組を見ていました。
「悪いものは悪いの!人を殺すのは悪いこと。だから絶対ダメなの!」
「なんで、駄目なものは駄目。そこに理由なんかない、ってはっきり言わないの!?」
と心の中でわめいてました。

「絶対」が揺らぐ・・・・・・。
最近だんだんそういうことが多くなってきたんですよ。
「戦争は悪だ」・…。これは絶対の真理じゃないのかなあ。
「いじめはいけない」・・…。これも絶対じゃないのかなあ。だって人の生存を脅かすんだもの。

ところが、そういう風に、「絶対」という言葉を使うのはどうやら今は時代遅れらしい。
時代遅れというか、なんというか、とにかくあまり口にしちゃいけないことらしい。

そこのところで最近ずっと考えこんでいるのです。
頭の固い私には、それがどうしても飲み込めない。
現代思想の流れ、といったものも全然つかんでないので、
思想史の上ではとっくに決着のついていることを、私はうだうだ言っているのかなあ、
といつも、悲しんでいたのです。

そうしたら、evgene さんが御自分の記事で、そういうことに触れてらしたので、
(あの、「高慢と偏見」やロックについて話し合った記事です)早速、
「おお。これは!」と思って、ぱくり!と食いついたわけ(笑)。

「価値観の多様化」、ということに全くついていけない私。
そうしてそうした時代に起こりがちな、「異質なものの排除」ということが認められない私。

でもね、
価値観が多様化して、根本の理念(と私が個人的に思うもの)までが揺らぎ、
ぐずぐずと人の倫理観が崩れていくよ~!、という、その点は嘆くけど、
いろんな考え方があって面白いな、と思うこともたくさんあるので、
「価値観の多様化」自体を全く否定しようとしているわけではありません。
もともと、私自身、人と同じ、というのは嫌いな性質だし、
人と群れるのも好きではないし(笑)。

ただね、evgene さんなど、活きのいい若い方と、こうやってブログ上で
いろいろ話をさせていただくようになって、
自分の教条主義的な所にも気づかされました。
それは深く反省して、もっと柔軟にならなければなあ、とこのごろ思っています。
ほんとかい?(笑)

ハンス・ヨナス、図書館で借りてきましたよ。
誰かの書き込みがいっぱいしてあった(笑)。
さあ、彼もしくは彼女はどんなところにアンダーラインを引いてるかな?(笑)

時間かかるかもしれないけど、また読んでてわからなくなったら訊きますね~。

> ああ、はやくマンガの話がしたいです。
まだ、シリーズは断続的に続けるつもりですので、
どこからでも、お好きなところからどうぞ(笑)。





> 度々すみません。話の熱が引いたのは分かっているんですが、伝えなければと思ったので、やっぱりコメントさせて頂きます。
>
> >私などの世代の者が、当たり前に「価値」だと信じているものは、
> >その後の時代でさまざまに検証され、解釈された結果、
> >その「嘘くささ」がもう見抜かれてしまっている。
>
> 「嘘くささが見抜かれてしまっている」というのは、ネガティブに評価し過ぎていると思いますよ。今日の昔からある価値観の位置付けを沈丁花さんの言葉で言うなら、検証され解釈された結果、「数多くある価値観の内のひとつになった」ぐらいが妥当だと思います。新たに生まれたその他の価値を信じるのも可能になった、というだけの話で、全否定されていませんし、寧ろ今も尤度の高い価値観としてあると思います。友情や愛情(例えば子どもに対しての)よりも素晴らしいものがある! と考えることも許される(?)ようになりましたが、やっぱり友情は素晴らしい! と考えたっていい筈です。多様性を認めることは同時に異質性を生み出しましたが、一個人がどのような価値観を持っていても、他者に迷惑をかけない限り構わないということなんだと思います。
>
> とはいえ、自然環境や就労構造を考える際には、そも全員参加が前提にありますので、理論は妥当性のある価値観については全て内包していなければなりません。すると、普遍性を持った価値が必要になりますから、「生きる」とか「生きたい」がそうなのかなあ? とぼくは思っている訳です。沈丁花さんの価値観に誤りや弱さを、ぼくは見ていません。嘘くさくないです。しかし、他の価値観と対立する部分がほんの少しあるから、「やはり普遍的とは言えない(内包しているとは言えない)」という趣旨のコメントをしました。
>
> ちなみに、「生きたい」も、死んだ存在を生き返らせることが出来てしまえば覆されることなので、普遍的だとは言えないんですけどね。
>
> ああ、はやくマンガの話がしたいです。
2009.06.20(01:13) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]



度々すみません。話の熱が引いたのは分かっているんですが、伝えなければと思ったので、やっぱりコメントさせて頂きます。

>私などの世代の者が、当たり前に「価値」だと信じているものは、
>その後の時代でさまざまに検証され、解釈された結果、
>その「嘘くささ」がもう見抜かれてしまっている。

「嘘くささが見抜かれてしまっている」というのは、ネガティブに評価し過ぎていると思いますよ。今日の昔からある価値観の位置付けを沈丁花さんの言葉で言うなら、検証され解釈された結果、「数多くある価値観の内のひとつになった」ぐらいが妥当だと思います。新たに生まれたその他の価値を信じるのも可能になった、というだけの話で、全否定されていませんし、寧ろ今も尤度の高い価値観としてあると思います。友情や愛情(例えば子どもに対しての)よりも素晴らしいものがある! と考えることも許される(?)ようになりましたが、やっぱり友情は素晴らしい! と考えたっていい筈です。多様性を認めることは同時に異質性を生み出しましたが、一個人がどのような価値観を持っていても、他者に迷惑をかけない限り構わないということなんだと思います。

とはいえ、自然環境や就労構造を考える際には、そも全員参加が前提にありますので、理論は妥当性のある価値観については全て内包していなければなりません。すると、普遍性を持った価値が必要になりますから、「生きる」とか「生きたい」がそうなのかなあ? とぼくは思っている訳です。沈丁花さんの価値観に誤りや弱さを、ぼくは見ていません。嘘くさくないです。しかし、他の価値観と対立する部分がほんの少しあるから、「やはり普遍的とは言えない(内包しているとは言えない)」という趣旨のコメントをしました。

ちなみに、「生きたい」も、死んだ存在を生き返らせることが出来てしまえば覆されることなので、普遍的だとは言えないんですけどね。

ああ、はやくマンガの話がしたいです。
2009.06.19(12:34) / URL / evgene / [ Edit ]


Re:evgene さんへ


>友なんとか……胸を熱くさせる言葉ですね。
ああ、そうなんですよねえ。
私などは、ほんとに何気なく、当たり前のように使っていますが、
「友なんとか」とか、「青春」とか、「青年」とか、「夢」とか「憧れ」などという
一連の言葉は、今はもう、きわめて特殊な、口にしにくい言葉に
なってしまっているんですねえ。
時の流れを感じてしまいます。(しみじみと遠い目。笑)

>『雷電本紀』っていう歴史小説。
知りませんでした。今ちょっと行って調べてきますね。

調べてきました。はああ。雷電為右衛門の本。
雷電ってそんな優しい人だったんですか。
私がその名を知ったのは、もう今から60年近く前。(おお!)
幼い頃、毎夜、母が講談本で得た話を、寝物語に語ってくれていました。
それこそ、「真田十勇士」とか八岐大蛇の話とか。
その中に、この雷電為右衛門の話もありました。
私が聞いたのは、講談本の、不遇の力士としての雷電の話でした。
谷風と並び称される強さと人格を持ちながら、ある時、投げ飛ばした相手が
打ちどころが悪くて死んでしまった。それで彼は横綱になれなかったんだと。
飯島さんの本は、そういう定型から離れて、人間雷電為右衛門を描いているんですね。
evgene さんが10指に入るとおっしゃる。相当面白そうですね。

>『もののけ姫』を観ても、「ああ、なるほど」と思ったり出来る訳です。
なるほど。実は正直に言うと、私、「もののけ姫」、解釈に苦しんでたんですよ。
善と悪、という、私らの世代の者が慣れ親しんだ、単純な構造じゃないでしょう。
で、結局なにがいいたかったんだ???? と、首をかしげてばかり。
evgene さんのこの言葉を聞いて始めて、そうか、そういう風に
深く読まなくちゃいけないんだ!ということがなんとなくわかった次第です。
それでもまだ、映画自体が理解できたとは言えませんが。
そういうことを念頭に置いて、もう2,3回見なくちゃだめだな(笑)。

> 沈丁花さんの言う「良心」について、ぼくが勘違いしていたことが分かりました。かなり普遍的なものに>近い気はしますが、やはりそれでも隣人やみどり児に抱く愛を倫理の基本とするのは、高望み(?)
> のように思えます。ここら辺は、沈丁花さんや田村氏、川崎氏と見解が異なるところでしょう。
>
> それらは、今の時代ではまだ当たり前のことで、説得力はあるとぼくも思います。が、ぼくは今の社会に「当たり前のこと」が「偉いこと」になりつつある気配を、感じているんですよね。人にあまり迷惑を掛けず、学生時代は勉強し、言葉にもある程度気を遣う。そして、人に親しみ、親しまれる。こういう人は普通の人ではなく、もはや偉い人になりつつあるのではないかという直感です。
>
> そう考えるとですね、環境などを考えるときに「敷居が高い」と感じる人が出てくると思うんですよ。もっともっと根本的なところを前提に、『もののけ姫』のキャッチコピーだった「生きろ」じゃないですけど、「生きる」とか「生きたい」というレベルにまでしないと敷居は高すぎる気がします。前提をこのレベルにまで厳しくしないと時間と空間の壁は越えられないんじゃないでしょうか。冷たく考えすぎですかね。

先ほどの「友なんとか」などということと同じなんでしょうか。
私などの世代の者が、当たり前に「価値」だと信じているものは、
その後の時代でさまざまに検証され、解釈された結果、
その「嘘くささ」がもう見抜かれてしまっている。

語っても語っても届かぬもどかしさ、のもと、というのが、evgene さんのこの言葉で、
なんとなく見えてきました。
いやむしろ、語れば語るほど、通じなくなっていくのかも。
そう思うと、私などの世代のものは、空しさにとらわれてしまいます。
逆にいえば、これからの人たちには、上の世代の語ることが、ただ上滑りするばかりで、
耳に届きにくいものになってしまっていきつつあるのでしょうか。

evgene さんは、そうした若者の感覚と、同時に、私などの世代の者の事物を
知識として知ってらして、両方の感覚がおわかりになられるから、
冷静な見方がお出来になるのだろうな、と思っております。

> あはは、そうかもしれません。ぼくはよく『「曖昧さ」というブラックボックスを内包したままでも、結果とし>て解決が導びかれるのならそれでもよい』という手段で現実と折り合いを付けますので、「誤魔化す」
>はそうしたことのコンプレックスかも。
理想論ではなく、現実的に、ということでしょうか。
でも、evgene さんの場合は、そういう理想論の拠って立つところをちゃんとご存じなので、
ただ現実論、というのとは違う、深さ、と言いますか、独特の優しさを感じます。

>沈丁花さんの更新速度に追い付けなくて申し訳ありません。
そんなこと気になさらないでください。
どうぞ、まとめてでも構いませんし、いつでもお気の向かれたときに、
ご自由に、お願いいたします(笑)。

2009.06.17(00:12) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]



>私の好きな「タンポポのお酒」というレイ・ブラッドベリの小説の中に、
>老女と青年の友情の話が出てきます。

友なんとか……胸を熱くさせる言葉ですね。死ぬまでには、ちゃんと自分のこととして口に出さなくてはならない言葉だと思っています。いますが、いざとなるとソワソワして言えなくなってしまいますね。ううっ、ダメだなぁ~、ぼくのダンディズムがまだ許さない。今はこれぐらいでご勘弁を。

>この本は、「私の好きな10冊」というテーマで書くとしたら、入れるだろうな。

それはまた、楽しいテーマですね。ぼくだと何だろうなぁ。『雷電本紀』っていう歴史小説があるんですけど、あれは確実に入りますね。伝説の相撲取り 雷電為右衛門の話です。

>私としては「気に入らなければ廃棄してもいい」というところが納得できませんでした。

>「契約」という観念で考えると、そういう選択肢も出てくるんでしょうね。

その通りだと思います。社会契約を通そうとしたが為に、倫理的立場の選択という曖昧な部分を残してしまったんだと思います。

>evgene さんは、こういう思想的な学問分野にも詳しくていらっしゃるけど、
>どうしてそんなに守備範囲が広いの?いつも不思議。

考えを通して物語を読むのが好きなので、ちょっとは知っています。今回の考えた方を知っているとですね、『もののけ姫』を観ても、「ああ、なるほど」と思ったり出来る訳です。そういった感動を求めているのでしょう。

>私がここで言わんとしているのは、ヨナスのいう「責任という原理」を、(田村の言葉で言えば)「空間的に隔たっている他人」において確たるものとすることを通して「時間的に隔たっている他人」に対しても適用してゆく、という道筋があるのではないか、ということである。

>こう言った風に、私の「良心」という考え方を、説明の仕方を変更してみたら、
>evgene さん、いかがでしょうか。

田村氏はシューレーダー=フレチェットの文脈で提案していると思われますね。

沈丁花さんの言う「良心」について、ぼくが勘違いしていたことが分かりました。かなり普遍的なものに近い気はしますが、やはりそれでも隣人やみどり児に抱く愛を倫理の基本とするのは、高望み(?)
のように思えます。ここら辺は、沈丁花さんや田村氏、川崎氏と見解が異なるところでしょう。

それらは、今の時代ではまだ当たり前のことで、説得力はあるとぼくも思います。が、ぼくは今の社会に「当たり前のこと」が「偉いこと」になりつつある気配を、感じているんですよね。人にあまり迷惑を掛けず、学生時代は勉強し、言葉にもある程度気を遣う。そして、人に親しみ、親しまれる。こういう人は普通の人ではなく、もはや偉い人になりつつあるのではないかという直感です。

そう考えるとですね、環境などを考えるときに「敷居が高い」と感じる人が出てくると思うんですよ。もっともっと根本的なところを前提に、『もののけ姫』のキャッチコピーだった「生きろ」じゃないですけど、「生きる」とか「生きたい」というレベルにまでしないと敷居は高すぎる気がします。前提をこのレベルにまで厳しくしないと時間と空間の壁は越えられないんじゃないでしょうか。冷たく考えすぎですかね。

>このあたりのところは、evgene さん流の、一種の「照れ」、が感じられますが、いかが?

あはは、そうかもしれません。ぼくはよく『「曖昧さ」というブラックボックスを内包したままでも、結果として解決が導びかれるのならそれでもよい』という手段で現実と折り合いを付けますので、「誤魔化す」はそうしたことのコンプレックスかも。

以上、レスでした。沈丁花さんの更新速度に追い付けなくて申し訳ありません。
2009.06.16(09:58) / URL / evgene / [ Edit ]


Re: ぺカリさんへ


> ダイエットもままならぬ現世代は未来世代の権利を認めないということによってエネルギー問題を解
>決可能にしたのです。

そうですよねえ・・・・・。
これは私自身が現世代の人間の一人として、責任の一端を現に負うべき問題で、
車は持たない、携帯も持たない、暖房はこたつ一台などと威張ったって、
もう避けがたく文明の利器の中で暮らしているわけですから、
私の言っていることなど、綺麗ごとといえば綺麗ごとなのでしょう。

それでも、なお、出来るだけ、未来世代に災いとなるものを残すことを
その量と質において、減らしていくということを考えたいと思います。

今ね、次の記事書いているんですが、「マンガ」についてなんです。
少し、話題をガラッと変えてですね。
こっちは書いてて楽しいけど、
原発の問題は、色々本を読んでいても、解決の出口の見えない道を
延々と歩いているようで、足取りは重いです。

次の記事も読んでくださいね。


悲痛や苦痛を最大の避けるべき課題とするならばば最も人間(ヒューマニズム)的解決法だと私も思います。
2009.06.13(01:08) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


皮肉なことに


ダイエットもままならぬ現世代は未来世代の権利を認めないということによってエネルギー問題を解決可能にしたのです。悲痛や苦痛を最大の避けるべき課題とするならばば最も人間(ヒューマニズム)的解決法だと私も思います。
2009.06.12(22:43) / URL / ペカリ / [ Edit ]


Re: はすいさんへ


そうなんですよ~。
とっても難しい話しになっていて、私もやっとこさでevgene さんについて言ってるの。
しょっちゅう、検索、というカンニングペーパー見ながら(笑)。

>大学での生命倫理の講義を思い出します。
は~、はすいさんも当たり前のように、ハンス・ヨナスのことを口になさる・・・・・
私、どの名前もこの名前も初めてづくしで、流れも全然わからなくて、
今回概略を教えていただいて、少しだけ流れが見えた「ような」気がするところなんです。
みんな、偉いなあ。ちゃんと勉強してらっしゃるのねえ。

沈丁花はあせりもするけど、ひどく嬉しいです。

>はやく家でネットがしたいです><
そうですね。早くお帰りくださいね、といっても無理なのかな。
2009.06.12(21:33) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


お久しぶりです。


数日ぶりにお邪魔しましたら、ヨナスまで出てくるほど高度で興味深い議論が展開されていたわけで…大学での生命倫理の講義を思い出します。ただ、時間的・知識的についていけない状態です(笑) はやく家でネットがしたいです><
2009.06.12(16:30) / URL / はすい / [ Edit ]


Re: 再度、evgene さんへ


わかりました。田村公江さんという方でした。女性かどうかわからないですけど。
以下、引用文。


9)田村公江は、論文「環境と倫理」に付された注の中で、未来の世代の問題を隣人愛と関連させて次のような興味深い問題を提起している。「未来の人々は、いわば時間的に隔たっている他人である。空間的に隔たっている他人と、時間的に隔たっている他人とは、どう違うのだろうか。われわれは隣人愛を、時間的に隔たっている人々に対しても持つことができるだろうか。このような比較は、隣人愛を構成していたものがそもそも何だったのかについて、考えさせる。」(『現代世界と倫理』、加藤尚武・松山寿一編、晃洋書房、1996年所収、141頁)私がここで言わんとしているのは、ヨナスのいう「責任という原理」を、(田村の言葉で言えば)「空間的に隔たっている他人」において確たるものとすることを通して「時間的に隔たっている他人」に対しても適用してゆく、という道筋があるのではないか、ということである。

ハンス・ヨナスについては、検索でわかりました、と言えるようなものではないと思うので、
まず読みます。でも、しきりに再販を願う、とか書いてあったんですが、
今、市販されてるんでしょうか。
図書館にあるかな。(ぶつぶつ。)

2009.06.12(15:16) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


Re: evgene さんへ


トリプルエラーになるといけないので、こちらのコメントの方に、お返事しますね。

>帰ってきたぞよ。わがネットの妻よ、なんちゃって!
凄い歳の差婚ですね!(笑)
私の好きな「タンポポのお酒」というレイ・ブラッドベリの小説の中に、
老女と青年の友情の話が出てきます。
この本は、「私の好きな10冊」というテーマで書くとしたら、入れるだろうな。
先日の「虫とけものと友人たち」のシリーズも入れたいな。
あと「モーヌの大将」でしょ。「吾輩は猫である」は無人島に漂流する時もっていきたいでしょ(笑)
ぁ~~、何かこのテーマでいつか書きたくなってきました。
絞り込むのに、一ヶ月くらい迷うかも。

私の質問にこんなに丁寧に答えてくださって本当にありがとうございました。
evgene さんのお答えが返ってくる前に、私も少しは予備知識を入れておかないと、
難しい話だからこりゃ、理解できないなあ、と思って、
検索でいろいろ予習しておきましたよ~。いい生徒でしょ?(笑)

K.S.シュレーダー=フレチェット。
おかげさまでその考え方の外郭がつかめました。
「世代間倫理」というキーワードになる概念。
また、現実には合うことのできない未来の人類に対する責任を、
「社会契約」の考え方で説明しようとするやり方、など。

なんとなくですが、最初、私の考え方ってこれに近いのかなあ、と思いました。
「~ねばならない」という部分がですね。
で、経歴を読んでいくと、この方は女性の方でいらして、お子さんも何人か
いらっしゃるんですね。
それで納得がいきました。
何となく感じていた感じが、母親が子供の将来を想う時にこういう発想をするだろうなあ、
という感じに似ていて、そこに私が最初共感を感じたのではないかと。

でも、その概念その物に、実証性がなかなか伴いにくいこと、など、
evgene さんのご説明でよくわかりました。
私としては「気に入らなければ廃棄してもいい」というところが納得できませんでした。
「契約」という観念で考えると、そういう選択肢も出てくるんでしょうね。

さて、ハンス・ヨナスですが、
やっぱり予習しましたよ~!(笑)
なんか、感動しました。
evgene さんが引用なさった部分から、私は彼の「未来への希望」への強い意思
を感じ取りました。何かこの方は根底に人間性への大きな悲しみの感情があって、
そこからこの強い希望が、逆説的に湧いているような気がしたんですが、
彼の経歴を見て、それが納得できました。

ナチの暴虐を目の当たりに見て、しかもご家族を収容所で失くされているんですね。
だから、ただのユートピア思想に堕さない、現実性と強さがあるのでしょうか。
私がそう感じたのは、「未来志向」というと、何か普通は未来を薔薇色の夢の世界のように
考えがちな楽観的なイメージを伴うと思うんですが、
彼はそうではなく、「物事の最悪の事態を想定せよ」、という根本的思想が
底に流れている気がするところなんです。
それが私もいつも、人に伝えたくて伝えきれないいことの一つなので、
ああ、ここにこんな思想を持った方がいらしたんだ!、と感動したんです。

ハンス・ヨナス。ぜひ読みたいと思います。
私のような者でも読めるかな。
論理的文章読み慣れてないので、いつも四苦八苦する私(笑)。
evgene さんは、こういう思想的な学問分野にも詳しくていらっしゃるけど、
どうしてそんなに守備範囲が広いの?いつも不思議。

とにかく、いろいろ教えていただいて良かったです。
私がこの頃、色々未来のことを考えている、その方向性がなんとなく
見えるきっかけになりそうです。

> 話が逸れましたが、未来志向の考え方は過去の因習(コンベンション)からの脱却にありますので、沈>丁花さんが示した、「現状を知り、その問題の原因を知る、考えることからすべてが始まる」ということ
>を、もう少し具体的にさせる方法の一つです。「問題が何か」を表出させるには、アプローチが決めなく>てはなりませんし、従来のアプローチで限界が来てしまうのなら、変えなくてはならないということで
>す。
あれも出来てない、これも出来てない、と知るのは大切ですが、
愚痴を言っててもしょうがない、んですね。
「予防医学」などという考え方も、こういうところから来ているのでしょうか?
多くの国民が老齢化していけば、医療費が多額にかかる。
保険制度は破綻してしまう。そうそう手厚い医療が皆にできるか。出来るもんじゃない。
・・・そういう風に悲観的、否定的に考えるのではなく、
「じゃあ、まず病気にさせないことを考えよう!」という、現実的で希望に満ちた考え方。

> 「良心」について。
私が、「良心」という言葉を使って表したかったもの、は、
その人の立ち位置によって変化したり、人によって考え方が違ったりする類いのものではなく、
何かもっと、普遍的なもののことを言いたかったんですけど、
いい言葉が見つからなかったんです。
で、ハンス・ヨナスについていろいろ検索している時に、彼が
「生まれたばかりのみどり児を見よ」というようなことを言っていますが、
「ああ、この考え方に、私の『良心』という表現で言いたかったことは近いかな」
と思いました。
目の前にいたいけな赤ん坊がいる。この子を放置するわけにはいかない。
この子の運命は今、ここにいるあなたの手にかかっている。
どうしてこれを見過ごしに出来ようか!
そう思う気持ち。それに近いかな、と。

「良心」という言葉だと、私の想いは正確に言い尽くせていなかったかもしれません。
そう言った意味でも、ハンス・ヨナス、教えていただいて良かったです!

でも、この考え方にも、批判者はいるんですねえ。
例えば、そのみどりごの例ですが、
「赤ん坊を見ても、何も感じない人もいる。」
「将来試験管ベビーを目の当たりにするようになっても、同じことを感じられるのか?」
とか。
「あるいは、同世代人に対する責任はどう考える?」とか。
これに関しては、私、極めて私の考え方に近い発言を検索で見つけました。

えっと、北海道大学の川崎惣一研究室。応用倫理勉強会の報告。
「ハンス・ヨナス『責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試みー』をめぐって」
http://www.geocities.jp/kawasakisoicji2004/hansjonas.html

そのページの最後のところに、あら、名前忘れちゃった!
ある女のかたが、(後で調べ直して送信し直しますね。)
え~、正確な文を思い出せませんが、「未来志向」というと、時間軸を考えるわけですが、
時間軸と空間軸となんの差ががあろうか、
時間軸で未来の人類を考えるのと同様に、空間軸で、この地球に同時代人として生きる
人々のことを想えばいい、
というような内容のことが書いてあったんです。
「これだ!これだ!」と思いました。
私がブログのごく最初の頃から、「遠くを想え」という時に、「遠い時間、遠い国」を同時に
念頭に置いて、繰り返し言ってきたことは、ここに集約されてたよ~~、
そう思いました。
あとで、正確なところを引用し直しますね。

こう言った風に、私の「良心」という考え方を、説明の仕方を変更してみたら、
evgene さん、いかがでしょうか。

>大きな文脈では悪でも、小さな文脈で善良であれば敢えて悪を指摘する必要はない、という態度で
>す。実際問題としてはグローバル化が進んでますから、そうはいかないんですけどね。
このあたりのところは、evgene さん流の、一種の「照れ」、が感じられますが、いかが?

また、私がハンス・ヨナス、読んだらいろいろお聞きしたいことが
山ほど出てくると思うんです。
その時はまた、教えてくださいね。
2009.06.12(14:32) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


Re: evgene さんっ!


大変!
今、2時間くらいかけてお返事書いたのに、
そして確かに送信したのに、
全部消えちゃった!

送信確かにしたんですけど、
なんか、私の「故郷の廃家」の検索ページみたいなのが出てきて、
あれっ?と思って、コメント管理ページに戻ったら、レスが消えてる!
というか、アップされてない!どこにあの長いレスは行っちゃったの?

もう一度書きなおします。
も少し待っててください。
2009.06.12(00:44) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


追加コメント


時間が余ったので追加コメントします。
説明だけして沈丁花さんのレスに答えていませんでしたね。失敬失敬。

>私が、「知る」とか、」教育」と言う言葉を使う時は、「あれも悪い、これも出来てない」という
>感じ方により近く、もっとくっきりした言葉でいえば、
>「現状を知り、その問題の原因を知る、考えることからすべてが始まる」
>と言う意味で言っているので、全くの「未来志向」と言う概念に当てはまるかどうかわかりません。

未来志向も「あれが悪い、これが悪い」という考え方です。問題を発見できなければ解決のしようがありませんから。現代では、国家や地球のように規模の大きいシステムを運営する際には、マックスミニ(最大利益最小リスクを得る方法)ではなく、ミニマックス(最小リスク最大利益を得る方法)を考えるのが定石となっています。映画『ビューティフル・マインド』の主人公である数学者 ジョン・ナッシュが証明した「ゲーム理論」というやつです。「囚人のジレンマ」という寓話が有名でして、結構面白い話ですから読んで見るのもいいかもしれません。詳しい内容は、知ろうとしても無駄だと思いますが。難しすぎて吐血もんです。解決案を示せたら、ノーベル賞は確実でしょう。

話が逸れましたが、未来志向の考え方は過去の因習(コンベンション)からの脱却にありますので、沈丁花さんが示した、「現状を知り、その問題の原因を知る、考えることからすべてが始まる」ということを、もう少し具体的にさせる方法の一つです。「問題が何か」を表出させるには、アプローチが決めなくてはなりませんし、従来のアプローチで限界が来てしまうのなら、変えなくてはならないということです。

「良心」について。

ぼくは、それについては部分的には承服できません。良心は立ち位置によって変化しますから、ぼくの良心があの人やその人の良心と対立してしまいます。全ての人間が同じような良心を共有する同質性を敷かなくてはなりませんから、覇権主義に走る危険性があると思います。

じゃあ、どうすればよいかと言うと、それぞれが小さな良心を抱えて大人しく死んでいくような感じで誤魔化す、という方法しかぼくは思い付けないでいます。大きな文脈では悪でも、小さな文脈で善良であれば敢えて悪を指摘する必要はない、という態度です。実際問題としてはグローバル化が進んでますから、そうはいかないんですけどね。
2009.06.11(17:19) / URL / evgene / [ Edit ]



帰って来たぞよ、我がネットの妻よ! なんちゃって。
はい、すみません。調子に乗りました。

かなり忙しくて頭の方を回せなかったので、後回しにしてしまいました。本当に申し訳ありません。その分、しっかりお返事したいと思います。まずは↓の箇所から。

>ぁ、そうです。場所でいえば、
>>未来のことが分からない為に築けない相互性の代わりに、社会契約というルール(合理性)を持ち込む
>>ことで補おうということです。
>ですが、補いきれてはいないでしょう。「自分が望むものは未来世代にも 認めること」
>という相互性の拡大が、まず最初に必要だからです。
>というところです。

ああ! その部分でしたか。理論的な流れではなく、ぼくがシュレーダー=フレチェットを否定している理由ですね。では、説明します。最初のコメントと重複するところもありますが、ご容赦下さい。

一般にK.S.シュレーダー=フレチェットを有名にしたのは「世代間倫理(キーワード)」という概念を提唱したところにあります。これは地球環境問題に対しての倫理を基礎付けたもので、最初に述べた通り、問題に取り組むことで生じる現生世代のデメリットを如何に納得させるかがその目的でした。

問題となっていたのは、現在存在しない未来世代との間の義務に、厳密な相互性を持つことが出来ないことです。そこで、シュレーダー=フレチェットは義務の相互性は必要ではないとし、その理由として、近代国家では過去から現在まで貫徹されて来た「社会契約」の「自己利害・合理性・正義」を持ってきました。

どういうことかと言いますと(重複してすみません!)、「自分が望むものは他人にも認めること。利害が一致しない場合は放棄すること」、これを未来に拡大し「自分が望むものは未来世代にも認めること。利害が一致しない場合は放棄すること」ということです。

で、ここからが沈丁花さんが疑問に思われたことの説明になります。

シュレーダー=フレチェットの理論には(氏自身も言及していますが)、倫理的立場の選択という問題が残ってしまうのです。

ひとつは、未来世代に対する責務を考慮しえないことを、現生世代の知識の不完全さを理由に、道徳的にリベラルな立場をとることです。まあ、平たく言えば、「未来のことは分からないから仕方がないな~」ということです。

もうひとつはその反対で、現生世代が部分的に無知であることを責務の正当化の理由として認めない、道徳的に保守的な立場です(ここでいう「保守的な立場」に負の意味はありません)。これも平たく言うと、「分からないことを前提にしてはいかんよ」ということです。

原発問題で例えると、道徳的にリベラルな立場では、「このまま技術が発展して行っても、将来的には完全に制御できるようになっていないだろう」という予測を認めます。ゆえに、正義の下に対策は実行されます。

保守的な立場では「制御可能かどうか分からないのなら、現生世代が損をする理由にはならない」と述べ、予測を認めません。ここは勘違いし易いですが、保守的な立場を取っていても対策は実行されます。ヒューマンエラーも含め制御不可能だと論証されるまでは、それは必ずしも正義ではないという立場なんです。

この選択が難しいのは、簡単に責務を認めてしまえば現生世代の損も簡単に正義として認めてしまうところにあります。

で、この二つの立場は互いの論証に時間が掛かり過ぎるという弱点があります。論証できないと言ってもよいレベルです(だから、お話が空転しないように最初に示したかったんですが、失敗しました。クスン……)。

ですので、世代間倫理という多くの曖昧さを持ったものを通そうとするよりも、事態を直截示す「未来志向の倫理」を適用すべきだということになります。というか、国家レベルでは既に適用しつつあります。

「ノン・リグレット・ポリシー」という言葉を耳にしたことはないでしょうか? 「後悔の無いように」という意味ですが、一度破壊された自然環境を回復するコストよりも、破壊しないようにする為に掛かるコストの方が低いという、経済効率を考えた費用便益分析の結果から導出されただけでなく、未来志向倫理を基礎的動機にして考えられた方針です(まあ、これは先進国がこぞって掲げているだけあって、政治的思惑が多分に絡んでいるところもあるのですが)。

さて、「未来志向」です。

残念ですが、沈丁花さんが調べた通りの意味です。未来志向自体はハンス・ヨナスが提唱したものではなく、哲学用語で「未来があるものとして考えること」として昔からある考え方です(大雑把ですが)。氏が提唱したのは「未来志向倫理」とか「長期責任の倫理」と呼ばれているものです。未来の問題は現生世代が解決すべき問題、つまり現在の問題として捉えることです。

注意していただきたいのは、ぼくがハンス・ヨナスの未来志向倫理が有効だとしたのは、環境問題のような未来を考える場合ですので、歴史責任のような過去のことも考える必要がある場合を含めていないところです。適用できなくはありませんが(実際に日本だけでなく中国や韓国の政府も適用すると言っていますし)、それは別の話になるので別の機会にしましょう。

最後にハンス・ヨナスの言葉を書いておきます。

「この倫理は希望を欠いている分けではないが、おそれにも正当な場所を与えている。――中略――長期責任の倫理の立場に立つとき、人間は謙虚になりこそすれ、面目を失うのではない。人間への自然環境への委任は、楽園喪失ののちでは、たいへんきびしい。人間としてその自然環境の本質を含む自己の本質の全体性を保つこと、歴史的な多くの試練を通して失われなかった人間への信頼を大切にすること、それはユートピア的な目標ではなく、しかもそれほど慎ましいことでもなく、地球の上の人間の未来に対する責任のある仕事である」

――『責任の原理』より

っかぁーーーー、この尖りようッ! シビレざるを得ませんね。
2009.06.11(13:34) / URL / evgene / [ Edit ]


Re: evgene さんへ


え~っとですね。
社会契約論はなんとなくですが(笑)わかります。
良くわからなかったのは、え~、

>シュレーダー=フレチェットが「義務の相互性の代わりに社会契約を考えた」という部分の理論的な流>れ(どうして代用できるのか?の意)だと理解していますが、それであってますよね? 

ぁ、そうです。場所でいえば、
>未来のことが分からない為に築けない相互性の代わりに、社会契約というルール(合理性)を持ち込む>ことで補おうということです。ですが、補いきれてはいないでしょう。「自分が望むものは未来世代にも
>認めること」という相互性の拡大が、まず最初に必要だからです。
というところです。

まさか今晩、返事を書こうとしてはいらっしゃいませんよね?
私は夜更かしでも構わないんですが、仕事のある方は、早くお休みくださいね。
お返事はゆっくりどうぞ。
いろいろお聞きしてすみません。
でも、楽しみです。

あ、そうそう。結界がある!そんな感じでした。
私は普段、そういうものはいっさい感じないし、信じないたちなんですが。
この先にはいかないほうがいい!なぜかそう思っちゃったんです。

2009.06.08(03:32) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]



すみません、質問内容にちょっと掴めないところがあったので、ちゃんとしたレスを返す前に確認させてください。

>「社会契約」というのは、いま一つよくわかりません。ルールを作るということですかしら。

↑の部分です。沈丁花さんがホッブズ、ルソー、ロックなどの「社会契約論」を知らないってことは無いと思うので、レスには自然権や生存権(つまり社会契約論の概要)の説明を省いてもよいだろうと考えているのですが、必要ありませんよね? 社会契約論自体は大体ご存知だと思っているのですが。

今ひとつピンと来なかったというのは、シュレーダー=フレチェットが「義務の相互性の代わりに社会契約を考えた」という部分の理論的な流れ(どうして代用できるのか?の意)だと理解していますが、それであってますよね? 申し訳ないですが、この点お願い致します。

>そうそう、恒川光太郎「夜市」。読みましたよ~。
>私個人としては、「風の古道」が好きです。

おっ、早い! 平易な文章で雰囲気を作り出すのが上手い作家ですよね。ぼくも表題作と「風の古道」が面白いと思いました。日常での違和感とか胸騒ぎのようなものを書くのが上手い。寂しいような、愛しいような、誰か(神様?)から視線を受けているような不思議な気分になりましたね。

>あるカーブした道にさしかかったとき、娘と私、何も言わず立ち止まって、
>そこから引き返したことがありました。
>あとで、二人顔見合せて、「やっぱり?」と言いあったことがあります。
>なぜか踏み込んではいけない道、のような気がした

へぇ~~~~~~、面白い! 民俗学には詳しくないのですけど、「結界」みたいなものを感じたのかもしれませんね。物理的には「進入」可能だけれども、心理的に「侵入」と認識させる術を結界と呼ぶそうですよ。よく建物内に「関係者以外立ち入り禁止」と書いてありますけど、実際は関係者でなくとも物理的には入れますよね? そんなような心理的にストップを掛ける術を、幽霊的なものへの畏怖を利用して行うのを結界と呼ぶそうです。

ではまた、よろしくお願いします。
2009.06.08(02:33) / URL / evgene / [ Edit ]


Re: Re: evgene さんへ


そうですか。evgene さんもこういうことをお考えになっていらしたんですね。

>自らの価値観を提言することは旧来の悪しきコンテクストだと理解し、またそれを最大の根拠に批難するような者には徳目を説いても効き目が無いだろうという結論に達しました。

そうなんですよ。そこが私の悲しく思うところなんですよねえ。
価値観が多様化した時代。それを否定するわけにはいかないでしょう。
どんな考え方もありうると考えて、自分の価値観は押しつけないようにしなければならない。

そうは認めたうえで、私は、「人間にとって不変の真理、普遍の真理」というものもあるだろう、
と、やはり考えてしまうんですね。

人類の未来、とか、人類の進歩とかを考えるときに、功利的な面からだけ考えれば、
先進国の利益と開発途上国の利益が真っ向からぶつかり合う。
老人福祉を手厚くしようとすれば、若者の負担増につながる。
自国の権益を守ろうとすれば、保護主義的にならざるを得ない。
功利的に考えれば、双方の言い分はどちらももっともで、
お互いが譲らなければ、もの別れです。先に一歩も進めない。

そこで、evgene さんが示してくれたように、色々な経済学者、思想家などが
知恵を絞る。
なるほど。「倫理観の形成に、時間的要素を加える」。すごい言葉ですね。
そういう風に考えたこと、ありませんでした。
「義務」というと、確かに、同時代に対してですよね。
「責任」というと、ある程度の未来を視野に入れて考えることになる。
ジョン・パスモア「愛の連鎖」・・・。鳩山さんの掲げる「友愛」などはこの考えに近いんですかしら。
私の考えの一部も、この考え方なのかもしれません。娘の生きていく未来、を考えますから。

「社会契約」というのは、いま一つよくわかりません。ルールを作るということですかしら。
現代人と未来人の間に考えられうる、ルールに似た契約。約束。

さて、最後の「未来志向」という概念、実はこれが一番私にはわかりにくく、
検索でいろいろこの言葉をキーワードに読んでみたんですが、
明確な概念が伝わってこなかったんですよね。
一番多かったのは、日韓問題や、日本対アジアの問題を語るケースで、
韓国やアジアの国々からの視点では、日本はまだ太平洋戦争の過去の反省をしていない。
ところが日本政府の言うのは、「過去を語るのではなく、未来志向で、日韓、アジアの問題を
語るべきだ」・・・・、こんな風な使われ方をしているケースが多かったんです。

でも、evgene さんの、ハンス・ヨナスの「未来志向」という概念は、そんな自民党の
お馬鹿な大臣などが便利に使いまわす、軽薄な考え方では当然ないですね。

現代のことを考えるのに、「あれもわるい、これもできてない」、という視点で考えるのではなく、
「『どういう未来像が望ましいか』、ということをイメージして、そこを目指す、という発想法」、
ということでしょうか?教えてください。

私が「教育」「教育」といつも言うのは、確かにそのことを含みます。
ただ、やはり、性格上、と言うのでしょうか、世代的に、と言うのでしょうか、
私が、「知る」とか、」教育」と言う言葉を使う時は、「あれも悪い、これも出来てない」という
感じ方により近く、もっとくっきりした言葉でいえば、
「現状を知り、その問題の原因を知る、考えることからすべてが始まる」
と言う意味で言っているので、全くの「未来志向」と言う概念に当てはまるかどうかわかりません。
でも、目指したいところは一つではないかと思います。

私がここで、鳩山さんの「友愛」や、宮台さんの「感染模倣」、三田さんの「良識」。
そして娘の言葉の「いい人」などという言葉で、伝えたかったものは何なのだろう、
と、真剣に考えてみた時、
「ああ、それは『良心』ということなのかもしれないなあ。」と、ふと思いました。
人間の『良心』。
私は宗教はやりませんが(笑)、この『良心』と言う概念は、
私のなかでは、時代や人種や世代を超えた、「普遍的価値」であるように思えるのです。
この『良心』というもので物事を判断すれば、「人間と自然」、といった対立軸を語る時にさえ、
ある程度過たずに考えられるのではないか、と思うのですが、甘いかなあ。
小さな日常の身の処し方から、一国の施策においてさえ、これは大事だと思うんだけどなあ。

私が、「知る」「教育」としょっちゅう言っているのも、人一人一人に、この良心を植えつけたい、と
思ってるからだ、と、今、思い当たりました。

「道徳」とはちょっと違うんですよ。
「道徳」は外から押し付けられるところがありますが、
「良心」というのは、人間の内部から湧きいずる、規範、という点が違うように思います。

私の思いつきみたいな文に、深い洞察と知識をいつもありがとう。
なんで、こんなにお若いのにいろいろ知ってるの?と、いつも感じ入ってしまいます。
早速読んでみますねv-290。とっても難しそうだけどv-292

そうそう、恒川光太郎「夜市」。読みましたよ~。
出だしの3,4ページ、会話がたどたどしい感じがしたけど、読み進むにつれて
> どんどん惹き込まれました。私個人としては、「風の古道」が好きです。
読後に強い印象が残りました。
日常の中でふと人が迷い込む、異世界。迷路。
現実にはあり得ないんだけど、そんな感じを抱かせる道にふと巡り合うことはあります。
昔、一家で三浦海岸に行って、父親が宿で昼寝をしている間、
娘と二人、あちこちの路地や何かを歩きまわって探検していたんですが、
あるカーブした道にさしかかったとき、娘と私、何も言わず立ち止まって、
そこから引き返したことがありました。
あとで、二人顔見合せて、「やっぱり?」と言いあったことがあります。
なぜか踏み込んではいけない道、のような気がした。魅かれるんですけども。
私は霊感など一切認めない人間なんですけど。

この人は民俗学などの素養のある作家さんなのかな。
怖いけれど懐かしい。
私にそういう素養があれば、またあちこち発見がある人かもしれないと思いました。
2009.06.07(16:40) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]



今回の記事の内容は難しいものだと思うんですが、ぼくも以前に同じことを考えたことがありますので一発コメントを残していきます。

>また、私がいつも、おかしなことだなと腹が立つのは、
>こういう困った人を助けたり、反原発運動などの活動をしたりする人を、
>なんとなく色眼鏡で見る空気がこの国にあることです。

ぼくもその空気について考えたことがあります。その結果、自らの価値観を提言することは旧来の悪しきコンテクストだと理解し、またそれを最大の根拠に批難するような者には徳目を説いても効き目が無いだろうという結論に達しました。

「~~することはいいことだ」という倫理観に訴えても、価値の多様性を認める社会にあっては「クソその物の価値観」もひとつの価値として放っておかなければならず、自分の考えを押し付けるなとか馬鹿みたいなことを言われてしまうんですね。

で、なぜそのようなすれ違いが起こるかを考えたのですが、どうも倫理感の形成に時間的要素を加えなくては、現在の問題を考えることができないことに気付きました。

従来の倫理は、その中心に「義務」を据えていました。「社会の一員として何をすればよいのか?」という意味です。ですが、これには行為の時間的制約があり、基本的に同時代同士の人間の利益についてだけ言及すればよいという弱点があります。つまり、明確に次世代、次々世代に対しての義務を認識していないんですね。これは当たり前の話で、未来の人間と現代の人間には相互性を築くことは出来ないからです。未来の事情は誰にも分かりませんから、未来人と現代人は厳密な意味での義務を持つことは出来ません。

ですが、現在の諸問題の中には未来を前提にしなければ考えることが出来ない問題があります。その中で一番有名なのが環境問題ですし、経済では就労構造(失業構造)に関するものです。自由経済から調整経済ですね。こうなってくると旧来の義務の概念では限界が来てしまいますので、それに代わるものを据えなくてはなりません。

で、「責任」という概念が出てきます。義務という短期的視野(同時代同士について考えること)から、責任という長期的視野(ある程度の未来を踏まえて考えること)への転換もしくは導入が必要になります。そうすることのみが、クソ野郎が懸念する、現世世代の利益を犠牲にすることを納得させるのでしょう。

ジョン・パスモアは責任の根拠として、先にあった楽観論、義務論、功利論、正義論を否定してから「愛の連鎖」を提唱しました。「愛の連鎖」の内容は大雑把にいうと「誰でも自分の子どもは可愛い。ならその愛を世界に未来に拡大すれば、自ずと未来に対して責任を持つことになるだろう。未来に対しての現在の犠牲も可能とするだろう」というものです(詳しくは、J・パスモア『自然に対する人間の責任』)。

自己への愛を直接の子孫というつながりで未来と結ぶという発想はベタですし、悪くは無いんですが、ちょっと無理もあると思います。自分の子どものことは考えられても、実際、孫になると難しくなるでしょうし、それが他人だともっと難しいでしょう。さらには、自分のことが好きではない人(歪んだ自己愛の持ち主)が多いのも現代の特徴ですので(ぼくなんかはそうです)。

また、シュレーダー=フレチェットは「社会契約」の概念から時間的制約を外して、責任の根拠を合理化しようとしました。社会契約は「自分が望むものは他人にも認めること。利害が一致しない場合は放棄すること」ですから、これを未来に拡大すると「自分が望むものは未来世代にも認めること。利害が一致しない場合は放棄すること」になります(『環境の倫理』)。

狙いは分かります。未来のことが分からない為に築けない相互性の代わりに、社会契約というルール(合理性)を持ち込むことで補おうということです。ですが、補いきれてはいないでしょう。「自分が望むものは未来世代にも認めること」という相互性の拡大が、まず最初に必要だからです。

こうしてですね、倫理的に未来と現代を結ぼうとすると無理があることがわかります。マルキシズム最大の弱点が、人は貨幣欲を捨てることが出来ないこととだったように、クソのようなエゴを克服することは99.9%の人には不可能なんだと思います。

ですので、それは回避して(考えないようにして)、現在発見された問題を現世世代の直接の問題として捉えるべきだと思います(ハンス・ヨナス『責任の原理』)。これは専門的に言うと「未来志向」という概念です。たぶん、これからはますます未来志向という単語が連呼されるでしょう。沈丁花さんの言う「教育」も、この方針に従うようになると思います。

※「沈丁花まんが祭り」を期待して来たら、難しい話題があったのでびっくりしました。いや~、難しい。考えていること全部を説明できないので、著者と著作名を書いておきました。まだ、新鮮さを失っていない人たちなので、現在でも有効だと思います。特にハンス・ヨナスは尊敬に値する人物です。読めたら感動もんです。カッコよすぎて難しいのが弱点ですが。

マンガもよろしくお願いしますね。
2009.06.07(00:56) / URL / evgene / [ Edit ]


Re: マサキさんへ


毎回、「総論」ばかり書いていて、一向に前に進みませんが(笑)、
病気になる前、若い方々との話の中で、
「そうだよなあ。過去は良かった、ばかり言ってても、これからを生きていく人に対し、
無責任だよなあ。」と思うようになりました。
そして熱で寝ている間につらつら考えていたことの結論がこれです。

「教育」「知る」ということは、ブログを始めたころからの私の一貫するテーマです。
貧困だって環境破壊だって、まず、知らなければ、理解できない。
「知らしめる」ためには「教育」しなければならない。
学校教育だけでなく、実地訓練も含めての、あらゆる手段を使っての教育。
これは大人だからもういい、という性質のものではなく、
大人であるからこそ、もう一度、学び直してみる必要を感じます。
私自身も勿論含めてですが。
逃げないで、実態を知ろうとすること。

次にくるのが、「行動」ということなのですが、
この、行動を起こす妨げとなるのが、私の中にもある、利己心、なんですよねえ。
自分さえよければいい。他人には興味がない。
政治家で、「・・・族」と言われるような人々は、これですよね。
もう箱ものはいいよ。新規に道路を延ばすのはやめようよ、と言っているのに、
選挙に勝つために、またぞろ、箱ものや道路を作ろうとする。

鳩山さんの言う、「友愛」の中身がどうだかまだよくわかりませんが、
こんな今時「くさい」言葉を堂々と掲げるのも、今の世には必要なのかも、
と思うようになりました。
それほど、人の心が殺伐としている。

とりあえず、まず、手を差し伸べようよ。
細い道ですれ違う時には、お互いちょっと譲り合う心の余裕を持とうよ。
悲しんでいる人がいたら、おせっかいでもいいからとにかく声を掛けてみようよ。

そういった日常の小さなことから始めて、人と人との関係が「タイトで苛烈」なものでない
社会に、内側から変えていく。
そうしてそれを政治の場、という大きなものにまで推し進めていく。
出来ないことでは決してない、と思います。

>「豊かさに疑問を持つ」
これが、私を含めて、なかなかできないことなんですよね。
なんで、自分たちだけが我慢しなきゃならないの、と誰しも思うと思う。
特に、後から来る世代、あとからくる国、の人々にとっては、
なかなか、わかってはいても、納得できないことだろうと思います。

先進国は豊かさを享受してきたじゃないか。
今度は俺たちの番だ。それ重工業の火を燃やし続けろ。何が悪い。
俺たちだって、アメリカや日本のように、豊かな生活がしたいんだ。儲けたいんだ。

先の世代や先進国の人々だって、今ある快適さを手放したくない。
その中で既に大金を手にしているにもかかわらず、もっと儲けようとする者もいる。

エゴとエゴのぶつかり合いです。
でも、そんなことをしていられない時代になってきているような気がしてなりません。
みんなで知恵を出し合って、今ある資源、今ある地球環境を大事にしていかないと。
運動は一人一人の心の中からでも始められると思います。

> 見捨てない、あきらめない、そしてひた向きに。これが僕の職場の仲間から学んだのキャッチフレーズです。

本当ですね。
2009.06.06(22:00) / URL / 沈丁花さん / [ Edit ]


「豊かさ」に疑問をもつこと


沈丁花さんの今回のマニフェストは「教育」「知ること」と「友愛」を持つことでしょうか?
僕は、これからのネックになってくる問題で考えていることとほぼ一致しています。
それから、これからは第三世界から吸い取ってきた自国の「豊かさ」が、「豊かさ」によって復讐されようとしているような気がします。
その「豊かさ」に疑問をもつことが重要なんだと思います。

「わが亡きあとに洪水よ来たれ」なんて古い標語ですよ。もうすでに洪水が来ているのです!
日本の高度経済成長の恩恵を受けていた中間層が消滅しています。あるいは、野菜だってどんどん栄養価の亡くなる作物や危険と隣り合わせのアグリビジネスが世界を席巻するようになる。原発だって、世界的にも不可能で高コストだとされているプルサーマルを稼働させなければいけない。
いよいよ自国にその危険が押し寄せてくる、という時に自国の繁栄のみを考えていたあり方や限界を問い直そうとする機運は高まっているような気がします。まさに国を超えた問題として環境問題や食糧問題があるからです。

それから、一生懸命であることを嗤ったり、命を考えることを嫌う風潮は、 沈丁花さんがおっしゃるとおり何も考えようとしないということと現状を維持したいという心理から来るものだと思います。

僕が現在のような物事を考えるきっかけは90年代の外国人労働者問題ですが、今は労働組合が職場にあってその仲間たちがいたからでした。彼らは、仲間を何よりも大切にするからこそ職場環境や格差の問題を具体的に会社にモノ申しています。一方で、職場のことなんて、自分のことだけで精一杯だという人もいます。
でも、職場の何人かがそんな風に真剣に物事を考え、動くだけで環境がちょっとづつですが変わってくるということを実感しています。
同時に、これが社会の縮図なんだなぁと思います。
見捨てない、あきらめない、そしてひた向きに。これが僕の職場の仲間から学んだのキャッチフレーズです。
2009.06.06(09:21) / URL / マサキ / [ Edit ]


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